窯猫通信覚書

絵描き・銅版画で本の挿画等描いている市川曜子の銅版画日記です。

長谷川潔展

先日、ラファエラのAさんから「長谷川潔展」のチケットを送っていただいたので行ってきた。場所はみなとみらいの横浜美術館だ。長谷川潔の版画は近代の日本の版画展のような展覧会には、必ず数点展示されているので眼にすることは多い。それらは長谷川潔と言えばコレ。というようなマニエルノワールの作品だ。
どうも私は大学時代に正当な版画を習わなかったので、『銅版画というのは』と、正面切って言いづらいところがあるのだけれど、工程としてどうしても職人的な作業が入ってくるということは言えると思う。特にメゾチントなどはそういった部分が多い。私は「技ありっ!」系も好きなのだけれど、そうではない物にどちらかというと魅かれると性質だと思う。勿論、そうは言っても銅版画なのだから技は多く、その積み重ねで出来上がった緊張感というものが、私にとっては程よい魅力なのだが。
展覧会では原版が何枚も展示されていて、これは大変興味深かった。マニエルノワールの版の黒の部分は何度も刷られているにもかかわらず、触れば今でもビロードのようだったろう。一緒に行ったM亮は刷りに感動していた。「職人技の刷り」というか職人の刷り師が刷っていたのわけだけれど。こういう展覧会では原版も観られるし、またそういった代表作以外のものも観られ、予想通り私はそれ以前の風景画や木版の方が好きだった。展示は「マニエルノワールに向かうまでの過程としての作品」というような並びになっていたのだけれど、私がずっと眺めていたい作品はそれらの中の風景画の一連の作品だった。それらを観てから代表作が並んでいる展示を観ると、長谷川潔が行き着いたマニエルノワールの作品は日本画のように見えた。
美術館のいくつかの部屋をめぐっていると、恩地幸四郎や駒井哲郎の版画を観ることが出来て、それらの作品もこれまで何度となく観てきたものだったけれど、やはりいつでも心魅かれるものだ。

美術館の周囲のみなとみらいの辺りは、くるたびに姿が変わっている。学生時代にうろうろした道はいったいどの辺りだったのか想像もつかない。当時は何故か関内のホールでグループ展をやるのが流行っていて、高尾から皆で来たり山手の友人の家に遊びに行ったりして、家からは遠いにも関わらずけっこう遊びに来ていた。私が覚えているのは、球場の周りの大通りで多分当時のベイスターズのマスコットかなにかだったと思うけれど、動物の着ぐるみを着た数人が旗を持って歩いていた光景だ。周りにはあまり人はいなくて、着ぐるみたちはトボトボと歩いていた。そうして時折子供がいるとおどけて見せたりしていて、まるで「あまり流行っていないスーパーの新装開店の催し物に借り出された帰り道」というような、ややわびしげなものだった。横浜の人間というのは広く知られていることだけれど、神奈川県人というよりも横浜市民という意識が強くて、私の周りの横浜市民達は何かというと「横浜は・・」と言う。横浜というと山手あたりのオシャレなイメージが強く、都民と言っても池袋近辺出身の私は多少のコンプレックスがあったのだけれど、その着ぐるみたちを見たとき、なあんだ。と、思ったのを覚えている。確かその時私は、浜っ子のめりいと一緒にいたのだと思うけれど、私が着ぐるみに興味を示している横で、彼女は憮然とした顔で歩いていたように思う。

M亮も横浜出身なので、するすると高校の頃に歩き慣れた道を歩いていく。馬車道の辺りを歩いていて「なんだか銀座に似てるね。」と私が感想を述べると「まあなあ。」と言った。「まあなあ。」の言葉の裏には、「銀座と一緒にするなぃ。」というような気配があったので、私はその後は黙っていたのだった。