窯猫通信覚書

絵描き・銅版画で本の挿画等描いている市川曜子の銅版画日記です。

男の子女の子

「 僕はマゼランと旅した」を読んでいる。

オンライン書店ビーケーワン:僕はマゼランと旅した僕はマゼランと旅した スチュアート・ダイベック〔著〕 / 柴田 元幸訳 白水社
ISBN:4560027412

ダイべックは話芸だなあ。と、思う。その前に小三治「ま・く・ら」を読んでいたせいかもしれないけれど、そうしてなんだか懐かしい。主人公は少年だし、舞台はシカゴなのに。この懐かしさはどこからくるのだろう。と、私は不思議に思う。
子供の頃、家にあった児童文学(といわれるもの)の中で、私が特に好きだったのは天使で大地はいっぱいだ (子どもの文学傑作選) (後藤竜二著)や、雲の階段(打木村治著)だった。どちらも主人公は当時の私と同じくらいの歳の少年で彼らの日常が描かれている中編小説だ。「天使で大地はいっぱいだ」は北海道が舞台で「雲の階段」は何処だったか忘れたけれど、時代背景は明治から大正にかけてだったかもしれない。私はその世界にどっぷりとつかって、何度も読み返していた。
テレビで観たわんぱく戦争 [DVD]も。何度も夢にまで見るほど好きだった。夢の中の私は映画の少年たちと一緒に棒切れを振り回しながら駆け回っていたのだ。その時、私は多分少年だったのだ。小説や映画でたいてい登場する、主人公が淡い想いをよせる女の子ではなくて。
 大人になってもそういうふうに本を読んでいることが多かったと思う。別に自分がアーチャーやマーロウだったりしたわけではないけれども。ただ、そのあたりが私が「『オジサン化』している」とか「『おじいさんのような暮らし』をしている」等と言われる由縁なのかもしれない。と、すこし思う。
それでもこの数年「これはやっぱり男の見方だろうなあ。」と、小説を読んでいて思ったりする。私にとってはそう思うことは小説を読むときにとても邪魔になる。というよりも、そういうふうに感じてしまうものはあまり面白くなかったものだった。ということになるかもしれない。
「僕はマゼランと旅した」は、私の少年の記憶を呼び覚ます。(というと変だけれど)

訳者の柴田先生のあとがきの中に小説の中の言葉を引いて

この本が物語を通して伝えているのは、ひとつには、まさに記憶とは夢の一種だという真実にほかならない。

と書いている。私が思い浮かべたのは、子供の頃に流行っていた漫画、みつはしちかこの「小さな恋のものがたり」の一節
「過ぎてしまえば 夢と同じ 思いだしちゃいけない 帰らぬことを」
少年と同時に私は少女でもあったのだった。