窯猫通信覚書

絵描き・銅版画で本の挿画等描いている市川曜子の銅版画日記です。

もう頬づえはつかない。

昔「もう頬づえはつかない」という小説があった。映画化されて主役は桃井かおり。でもそれとは関係ない。私は顎関節症になってしまったのだった。顎関節症は頬づえをついてはいけないらしい。
子供の頃から歯だけは丈夫で、健歯優良生徒なるものに何度も選ばれ、なんだかわからないけど賞品に縄跳びを貰ったりした。それで永久歯が生えてから歯医者に行ったのは高校3年になってからで、それも歯並びの見本をとるために日大医科歯科に呼ばれたのだった。しかし、20代後半に親知らずが虫歯になり、その2本を抜いたときには偉い目にあった。1本目はどうということもなく、2本目の抜歯後、血が出なくて暗い穴がポカンと開いたまま肉が盛り上がらずに神経が空気に触れていた。
その時、友人の西堂君が酔って階段から落ちて前歯を折った予備校時代のことを思いだした。その晩は神経が出たままで夜を過ごして誰かが「どれ」なんて言いながら、その神経を箸かなんかでつついたという話。私はその場にいたのだったか、後から聞いて笑っていたのだったか、とにかく彼が泣き叫んだというのは覚えている。もし、つついたのが私だったら、本当に申し訳ないことをしたと痛む口を押さえながら思ったのだった。


痛み止めを飲みすぎて口中に口内炎が出来た。それが数ヶ月続き、通っていた歯科は何人もの先生がいたのだが、私の担当医は途中で故郷で開業するとかでいなくなってしまった。引き継いだ先生が私の歯を診るなり、「○○先生はひどいことするなあ。」と、ぽつりと言ったものだ。何ヶ月かその痛みと戦い、私は人並の歯医者嫌いになった。その時の痛さを人に尋ねられると、「虫歯に10秒おきに五寸釘を打っているような痛さ」と私は答えた。本当にそんな感じで時々気を失いそうになっていた。
それとは別に、子供の頃から顎ががくがくしていた。大きな口を開くと顎関節がずれるような感じだった。小学生の頃だったか、試しに頬の辺りを押さえて大口をあけてみたらガクンと音がして口が締まらなくなった。それが顎が外れたということなのかもしれない。焦って顎関節を押しながらどうにかこうにか閉じたのだけれど、それ以来よけいにガクガクするようになったようだ。
その後、小さな虫歯が出来て歯医者に行くたびに、顎関節のことを尋ねてはいたのだけれど、特に何も言って貰えなかったり、大学病院に行くように。と言われたりしたのでそのままにしていた。それがこの数日、なんとなく顎関節が重いなあ。と思っていたら、ついに噛むと激痛が走るようになった。それで今度は口腔外科のある歯科医を探して行った。
顎関節症は、いまや生活習慣病で・・・云々。という注意事項の書かれた数枚のコピー用紙を渡された。「ほおづえをついてはいけない。」と、そこに書かれていたのだった。それ以外にも「歯を食いしばらない」とか「リラックスするように心がける」とか色々。「原因はストレス性のものも多く・・・云々」
私の体調が悪くなる原因は、すべてストレス性。とか言われる。突難も腰痛も。それなのに問診で「ううーん。でもストレスなんてあるの?」などと担当医は尋ねる。そうしてたいていの場合担当医のメガネの奥の眼は笑っている。私はそんなに能天気に見えるのだろうか。以前突難で耳鼻科に通っていて、電話の発信音が耳元で大音響で鳴っているような耳鳴りが続いたときに、眠れないと訴えたのだけれど「なぁんで?なんか考えちゃったりするの?」と、担当医は笑いながら意外そうに言った。なにが可笑しいんじゃ。と私は言いたかった。
子供の頃から身体の力を抜くのが下手なのだ。気がつくと歯を食いしばっている。
顎関節症だとパンの耳くらいの硬さの物も食べてはいけないのだった。「サクッ」というくらいのものなら良し。要するに簡単に噛みきれるようなもの。その他は柔らかい離乳食のような、噛まなくてもいいようなものしか食べられなかった。夕べは冷蔵庫に眠っていた百合根で卵とじを作って食べた。サクサクサク。美味し。