窯猫通信覚書

絵描き・銅版画で本の挿画等描いている市川曜子の銅版画日記です。

詩人たちユリイカ抄

詩人たちユリイカ抄 (平凡社ライブラリー (558))

詩人たちユリイカ抄 (平凡社ライブラリー (558))

頁をめくると安東次男と駒井哲郎の詩画集「からんどりえ」の原画の写真が載っている。これらの版画を私が初めてまとめて見ることができたのは、10年以上前の浦和の美術館の駒井哲郎展だっただろう。他にも安東次男と駒井哲郎の詩画集がガラスケースの中に展示されていて、私は覆いかぶさるように見ていたのだった。

この本の最初の辺りに出てくる「黒い瞳を光らせながら立ったまま南京豆をかじっていた喫茶店のウエイトレスのユリ子さん」は、その2行にしか書かれていないけれど、もちろん武田百合子さんのことだろうと思う。「詩人たちユリイカ抄」はそんな時代に詩の出版社をやっていた伊達得夫のエッセイだ。
 本を読んでいて、詩の本は昔から売れなかったのか。と、私は意外に思った。詩の本が売れていた時代はあったと思っていたからだ。「からんどりえ」もそうだけれど、売れていたから昔の詩集は豪華な装幀だったり、銅版画の詩画集があったりしたのだと思っていた。刷数300部などという数が何度も出てくる。デジタルではなかった時代、紙や印刷代は今よりも高かったに違いないのに、それでも続けていかれた時代。今よりも本というものが輝いていた時代があったと思っていたのは、私の思い違いだったのか?そんなことはないだろうと思う。刷数が少なくても、今よりも皆本を読んでいたはずだ。何が違うのか。他の媒体がが少なかったせいなのだろうか。それとも情熱?

先日編集者の人達の飲み会に同席させてもらった。
M亮と研究社の金子靖氏をはじめとして、若き編集者のSさんとIさん。話題はホリエモンから政治問題、現在の出版事情まで。皆熱く語る。
 M亮が自ら右翼だとカミングアウトしちゃったり(とある)邦画のヒーローのような金子氏の話は面白すぎてここには書ききれない。あっという間に時間が過ぎた。今の時代にだって情熱を持っている出版人達がここにもいたのだった。
若い人は本を読まなくなった。とよく言われるけれど若い人だけじゃなくて、世の中全体がそうなのだろうと思う。昔に比べれば。インターネットの普及のせいで・・・と一時言われていたけれど、それはある種の本はそうなのかもしれないけれど、それだけではないだろう。
「詩人たちユリイカ抄」巻末を見ると、書肆ユリイカは多くの本を出版している。これだけの本を出すには、たいへんな忙しさだったろうと思う。けれど、伊達得夫という人の文章からうかがわれるその頃の時間は今よりもゆったりと流れていたように思える。

本屋さんに聞きましたらある喫茶店だかバーだかの2階に書肆ユリイカは存在して、『ユリイカさん』と下から呼ぶと経営者が下りてくるのだと言いました。

という読者からの手紙が載っている所などを読んでもその時間の流れ方が感じられる気がする。もっともそのあとには

10年このかた「喫茶店だかバーだか」の2階のうすぎたないオフィスで「ユリイカさーん」「はーい」というような商売をつづけていることに、ほとほとやるせない思いだ。

という伊達得夫のぼやきの様な文が続いているのだけれど。

パソコンやインターネットのせいで本を読む人が少なくなったとしたら、パソコンのスピードに人間の方が気付かないうちに合わせようとしているからなのではないかと思ったりする。人間の脳が。
 頁をめくって文字を読み、そこに書かれている宇宙のような空間を感じることができなくなっていて、だから、売れる本はそれなりの答えがすぐにわかったような気にさせられるように書かれている、手ごろなサイズのものだったりするのではないか。
時間を短縮させる為におそらく生み出された機械で、一緒に縮んだのは人間の脳なのかも。