窯猫通信覚書

絵描き・銅版画で本の挿画等描いている市川曜子の銅版画日記です。

絵を描くということ

 水彩画教室で、生徒達が真剣な眼差しで絵を描いているのを見ているのは、けっこう辛いものがある。なぜなら私だって描きたいからだ。
 人が絵を描いているのを見ていて自分は描かないでいる。という経験は、予備校などでモデルのバイトをした時くらいしかないように思う。私は物心ついてから今までずっと何かしら絵を描いていた。と言っても、子供の頃は落書きだ。家には原稿を裏返してホチキスで閉じた冊子が山のようにあり、私はそれに柔らかめのエンピツで落書きをしていた。それは鉄腕アトムだったり、家で飼っている犬の足やアヒルだったり、その頃好きだったヒッチコック劇場に出てくるヒッチコックの横顔だったり。何かを描こうと勢い込んでいたわけではなく、線画みたいなものをただ何となくゴチャゴチャと描いていたのだった。その頃描いた膨大な落書きは別に残しておこうとも思わず、知らないうちに無くなった。絵を描いていても描き終えると忘れてしまうのは、今に始まったことではなかったのだった。

 教室で絵を描いている生徒達を見ていると「絵を描くということ」について考える。
 (描き終えると忘れてしまう、ということを、先日伴さんに話したら「心配するな。それはアホなのではなくボケじゃ。」と言われた。)