窯猫通信覚書

絵描き・銅版画で本の挿画等描いている市川曜子の銅版画日記です。

山火事

 駅へ向かう途中の公園を抜けると、消防車が鐘を鳴らしながら勢いよく坂を下りてきた。立ち止まっていると、そのまま私の家のある方角へ曲がっていく。戻ってみようかと思ったけれど、まだ腰が痛いのでそのまま駅へ向かい小さな階段のある路地の下に着いた。見上げるとハルヨシさんが階段の上に立っていた。

 ハルヨシさんに会ったのは初めてだ。それなのに何故ハルヨシさんだとわかったかといえば、彼が彼の家の前に立っていたからである。彼の家は階段を上りきった角にある。その小さな庭には丹精された植木が沢山あって、私はいつも前を通ると足を止めて見ていた。表札には○田ハルヨシと書いてあるのだ。後で思えばもしかしたらその家の他の人だったのかもしれないが、私はハルヨシさんを見た瞬間に、その人がハルヨシさんだと決めたのだった。
 私が階段を見上げているとハルヨシさんは「火事だよ。」と私に言った。ハルヨシさんは釣り人が被るような鍔のついた紺色の帽子を被り白いポロシャツを着ていた。歳は60半ばくらいに見えた。背はそれほど高くなくがっしりとしている。繊細な植木のイメージとは少し違っていた。私は腰をかばいながら階段を上りハルヨシさんと並んで煙の上がっている方角を見た。明らかに私の家の方向だったので、少し心配になった。ハルヨシさんは「燃えてる、燃えてる」と言いながら、私が上ってきたばかりの階段を駆け降りて、そのままの勢いで向かいの小山の雑木林の、杉の根で自然の階段のようになっている急な崖を忍者のように駆けのぼって行った。背の高い草や雑木林の向こうの方から煙が上がっていた。私も杉の根を伝って上りたかったけれど、腰が痛いから降りることが出来ないだろうと思い、とにかく階段を降りて家の方角に戻ってみた。

 公園の中に戻ると、消防士が池から水を吸い上げようとしていた。火事はどうやらハルヨシさんが入っていった雑木林の中のようだった。それで私はまた駅へと引き返した。途中で2人の消防士が雑木林へはいっていくのが見えた。
 また階段の下まで来ると今度は2人のオジサンが立っていた。1人はハルヨシさんが被っていたような形の赤い帽子を被っている。1人はツイードのスーツを着て銀縁のメガネをかけてちょびヒゲをはやしていて、なぜか片手に1本分のバナナの皮を下げていた。ちょうど今食べたばかりで皮だけ持っているという様子だ。そうして2人とも何となく嬉しそうな顔つきで、口を薄く開けながら雑木林の方角を見ていた。

 私が階段を上ろうとすると、ハルヨシさんが家から飛び出してきた。手にはスコップをもっている。そうしてまた階段を駆け降りてそのまま杉の根の段々をのぼり、雑木林の中に入っていってしまった。私は階段を上がりオジサン達と並んで雑木林を眺めた。

「消防士も上るときは消火器くらい持っていけばいいのにさあ。」と赤い帽子のオジサンがいった。
「シャベルだよ。シャベルで土かけてんだ。」バナナの皮を持ったオジサンが言った。しばらく皆で雑木林を見ていたら煙の間から炎が上がるのが見えた。「あ、火が見える」と、私が言うと、「燃えるね。これは。枯れてるから、草が。パチパチと。」と赤い帽子のオジサンが言った。「子供じゃないね。これはタバコの火だ。子供のいたずらじゃないよね。」とバナナのオジサンが言った。火はチョロチョロと見えていたけれど、消防士の放水が始まるとすぐに煙だけが流れるようになった。皆黙って眺めていたのだが、私が見るのをやめて振り向くと、赤い帽子のオジサンも踵を返して私の前をスタスタと歩き始めて角を曲がって人込みに紛れてしまった。私がゆっくり歩いて角まできて振り返ると、バナナのオジサンだけがバナナの皮を指先でつまんでぶら下げたままで雑木林を眺めていた。