窯猫通信覚書

絵描き・銅版画で本の挿画等描いている市川曜子の銅版画日記です。

学生時代

 色々と理不尽なことが多く、胃が痛い今日この頃。
  チロリ君から電話でマックについて相談を受けた。その話の中でチロリ君が先日アシカ君と新宿で飲んだと言っていた。アシカ君は、私の誘いにも、忙しいとかお尻の調子が悪いとか言っていたくせに。それで私は「新宿で飲んだくれたそうだね。」と、アシカ君にメールを出したら、すかさず「打ち合わせだよ。大人の付合いだ」というような返信が来て、その後電話がかかってきた。アシカ君はおそらく妻にもそういう言い訳をしているのだろう。アシカ夫人も大学時代の同級生。今度電話で密告しておこう。

 「で、どう?」と、アシカ君が尋ねるので、「なにがよ。」と、私が答えると、アシカ君に大笑いされた。「普通、『どう?』って言われて『何が?』って訊くかよ。『どう?』って訊かれたら、『まあ、まあ。』とか『ボチボチ』とか、答えるのが大人だろ。」と、アシカ君はウヒャウヒャと大笑いをしている。私はこのところ腹立たしいことが多いので、なんだかもう「なにが悪いンだッ!。」って気分だったけれど、電話を切ってから急におかしくなった。
 アシカ君も大学時代の同級だが、私は大学3年になるまで同級生とは殆ど話をせずに過ごしていたので、今のような友達づきあいを続けるなんて当時は思ってもみなかった。
 アシカ君は真面目な生徒で、1年の時から午前中の教職の必至科目にきちんと出席していた。私は2年までに卒業単位は取ってしまおうと思っていたので、やはり朝から真面目に出席していた。私は午前中に授業を受けると、たいていすぐにバイトに向かっていたので、アトリエにいることは殆どなかった。顔を合わせない他の同級生の間では「市川は学校をやめたらしい」という噂が流れていたことを後になって聞いた。それでも時折行き帰りの乗換の国分寺駅で、アシカ君と電車が一緒になることがあった。私はそんなふうにあまり学校生活に関わっていなかったからアシカ君とも共通の話題もなく、アシカ君にしてもパンク頭でサングラスをかけて、黒い口紅なんぞしている女とは、何を話していいのかわからなかったことだろう。しかし、国分寺駅のプラットホームで、お互いに顔を合わせてしまうと、挨拶をしないわけにもいかない。
「やあ、おはよう。」「おはよう。」「いい天気だなあ。」「ホントだねえ。」・・・沈黙・・・・・
そうして、お互いに張り付いた笑顔で気まずい雰囲気のままそのまま高尾まで乗っていき、途中でそれぞれの知り合いが乗ってきたりすると、なんとなくそちらへ向かっていく。そんなことが繰り返される朝だった。
 ある日の帰り道。国分寺線でアシカ君と一緒になった。その日も何となく意味もない会話と沈黙を繰り返しながら、二人で並んでつり革につかまっていると、アシカ君に声をかける人がいた。「おお、○○じゃねえか。ひさしぶりだなあ。」と、アシカ君は救われたような安堵の顔で、その人と話し始めた。アシカ君の地元は沿線界隈なので、どうやら二人は高校時代だか中学時代だかの同級生のようだった。そのうち、アシカ君の知人が、隣にボケッと立っているパンク頭の私をチラチラ気にし始めた。すると、アシカ君は慌てて私を彼に紹介した。
 「えーと。えーと。この人は同じ大学で、えーとえーと、今日初めて一緒に帰る市川さん。」私が真っ黒なサングラスのまま会釈をすると、真面目そうなアシカ君の同級生は明らかに脅えた表情をし、アシカ君も不自然に狼狽えていた。私は笑いを噛みしめてそっぽを向いていた。その同級生が途中下車し、ホームを歩いていくのをアシカ君は目で追いながら、「いや、彼は同じ学校だったんだ。」と、なんだかとても悲しそうに言った。それをみて、私は少し申し訳ない気分になったものだった。