窯猫通信覚書

絵描き・銅版画で本の挿画等描いている市川曜子の銅版画日記です。

育ちのよさ

 大学時代には、気にしていなかったことでも社会に出て色々な人に会うと、なるほどな。と思うことも多々ある。
 「結局さあ。ワシラの友達ってみんな育ちがいいよね。」と、学生時代に友人のDが言っていた。彼女の言う「育ちのよさ」と言うのが、私には当時わからなかった。確かに、私学の大学に浪人して、しかも卒業しても仕事につける保証もない美術大学の絵画専攻などに進学させる家庭というのは、当時としては、まあある程度経済的にめぐまれてはいただろう。もっとも、造形大は当時私学では笑ってしまうほどに学費が安かったと記憶しているが。「まあ、みんな裕福だよね。」と、私が答えると、Dは、「そういうことじゃないよぅ。」と答えた。
 卒業してココまで年月が経つと、色んな人たちと会う。たいていは仕事がらみだ。仕事絡みにしろそうでないにしろ、誰かに世話になったらひと言お礼を言うのが当然だと私は思っていた。仕事で出会った人との会話の中でそんな話をしていたら、「まあ、これから先世話になるのだったら、言ったほうがいいよね。」と、言われた。人間関係って、そういうものなのか?と私はなんだか腑に落ちない気持ちで「うーん」と黙っていた。
 大学時代の友人も、勿論皆多忙な社会人である。アシカ君もM亮も手賀沼君もずんさんもチロリも。おそらく人間関係を計算して動いていかなくてはならない場面にも多々あっていることだろう。しかし、先日M亮と話していて気がついた。彼は多くの人に対して感謝をしている。毒舌家の多い私の友人の中でも抜きんでているM亮なのだけれど、その彼でも(というか)。彼の会話の中には「○○と言われて、本当にありがたかった。」とか、「○○さんには、世話になって本当に感謝していてさあ。」という言葉が随所に出てくる。勿論彼は当然のこととしてそういう人に礼をつくしている。それは前述の人が言ったように、今後も世話になるからとか利益になるからとかではない。極々当然のこととして。
 思えば大学の友人達は皆根本的にそういう人達である。ああ、なるほど。「育ちがよい」とはこういうことか。と、私は目からウロコが落ちる思いであった。