窯猫通信覚書

絵描き・銅版画で本の挿画等描いている市川曜子の銅版画日記です。

線と線の間

今回の個展は初日に招集をかけなかったので、大学時代の友人達は、バラバラにやってきた。そうして、皆の話題はアシカ君の病状だった。
 「あいつ、どうなのかなあ。手術終わって・・」「まだ飲めないんじゃないの?」「退院したのは一週間前だものね。」しかし、そう言いながら皆ニヤニヤとしている。アシカ君の病気は痔であった。「大変だよねえ。」と言いながらも、友人達の顔は緩んだままだった。
 個展も中盤を迎えた日の朝、私は画廊近くの道を歩いていた。前を行く大きな荷物を持った痩せた赤シャツの男性の横を通りすぎた途端、後ろから声がした。

 「市川!」
 振り向くと赤シャツのアシカ君が力なく笑っていた。「うわー、大丈夫なの?痩せたから全然気づかなかったよ!」と、私が言うと、「俺はすぐわかったぜ。お前異様なカッコしてっからよ。」と、アシカ君はいつものように平然とした顔でそう言った。
 画廊に入ると先客が居たので、私たちは絵の前で話を始めた。「で、どうなのよ。」と私が尋ねると「なんかさー。冴えない・・ってえのが、ぴったりなかんじ。」と、なんとなく地に足が着いていないような様子で、アシカ君は答えた。「でさあ。入院中ヒマだから、クロッキー帳持ってったんだけどさあ、ベッドってみんなカーテン締めるじゃん。そうすると、見えるのって自分の足と備え付けのテレビに写ってる自分の顔だけなわけ。それしか描くもんないんだよナ。でも、クロッキー帳一冊描ききったぜ。」とアシカ君は私の絵を見ながら話している。

「俺。絵が下手になった。」と、アシカ君が言った。アシカ君は仲間内でもデッサン力がぴか一で、なんだって描ける。「えー、なんでさー?上手いじゃん。アシカ君」と、私が言うと、彼は言った。「なんかさ。仕事とかそういうので描く線と美術の線の間には、凄く沢山の線があるじゃねえか。だからさ。」アシカ君は、薄く口を開いたまま、正面の作品群を上から下まで眺めていた。

 それから、『一合』と名付けた徳利とお猪口の版画の前に来ると、「いいなあ。これ。酒のみてえなあ。」と言った。その版画を見ているアシカ君の顔を、私はそばで観察していた。アシカ君の目は版画の画面ではなく、そのむこうに本物のお酒を見ているように嬉しそうだった。

 画廊の小部屋が空いたので、私はアシカ君にクッションを一枚多く渡して椅子を勧めた。病状を尋ねると、「オウ!」と言いながら、鞄から紙を取りだして、自分の症状と手術の結果を細かく図解して説明してくれた。それはもう、私にとっては想像を絶するもので恐ろしいかぎりであった。

 その後、アシカ君と私は画廊の近くで昼食をとり、仕事に戻るという彼を見送って私は一人画廊に戻った。
 小部屋に入ると画廊のIさんがお茶を入れてくれた。机の真ん中には、アシカ君が描いたお尻の図が置かれたままで、クーラーの風でハタハタと揺れていた。

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アシカ君の入院日記は、学生時代の友人達の間で読まれている。まだ、途中なのだけれど、抱腹絶倒。完成したら窯猫ライブラリに掲載予定である。