窯猫通信覚書

絵描き・銅版画で本の挿画等描いている市川曜子の銅版画日記です。

週末私の友人の中では、最も若いTさんが来て、宅飲み。掃除が下手な女(私たち二人)の話をする。私は画業にまつわる色んなもの、コンピューターにまつわるもの。つまり仕事絡みのものが無ければ、部屋はもっと片づいているのだ。・・・と、思っていたのだけれど、Tさんと話すうちに、もしそうであればそれらにまつわるところ以外は、今だって片づいているはずだということに気がついた。彼女にそう言うと、納得したような笑みを浮かべて、雑然とした私の机辺りを見ていた。
来週末は掃除をすることを決心した。そして、Tさんもこれを読んでいれば、自室の掃除をすることだろう。掃除だ!掃除だ!と勢い込まねば、しないところがまず問題。
「若い友人には、その頃の自分や現在の自分を、重ね合わせたりするのだ。」と言う人がいる。「若い人を通して、もう一度俺は青春している。市川さんだって、絶対にそうだ。」と、彼は言い切る。
しかし、記憶喪失気味の私はそんな年頃を思いだすのには少し苦労する。若い友人が問題を抱えたときには「自分は果たしてどうだったっけ?」と、ぺらぺらと頭の後ろをめくる作業が必要になる。もう、これは百科事典なみ、どっこいしょ。と頁をめくってようやくみつかるというような。かといって、他者を通して青春をするほど、自分自身にも余裕はない。だいたい、そんなことは相手に対して大きなお世話なんじゃないかなあ。と、思う。自分のしてきた経験、させたい経験・・・そんなものは個人個人で違うのだ。で、私は結局同年代の友人に対してと、あまり変わらないつきあい方しか出来ない。年代を超えて、普通に考えられること。しか話せない。そして一緒になって、憤り毒舌を吐く(気がつくと毒舌を吐いているのは私だけだったりもするが)
Tさんとは、ボソボソとキムチ鍋をつつきながら朝まで飲んでいた。