窯猫通信覚書

絵描き・銅版画で本の挿画等描いている市川曜子の銅版画日記です。

友人からナナオの19インチのモニタをもらった。殆ど新品。ありがたいことである。私はこれまでモニタ運が悪かったのだけれど、これで一気に解消された。いや、それ以上。もらったモニタを運んでくれたのは運が悪かった私を笑った友人の一人、宮原氏である。実は彼もこのモニタを欲しかったうちの一人なのだが、私の方がひと足早かった。宮原氏には運んでもらった上に、お土産にボンベイ・サファイヤをもらった。イヤイヤ、誠に友人というものはありがたい。

人が来ると、家の猫は愛想をふりまく。普段よりもシズシズとしたようすではあるけれど、自分の存在を示しながらあちこちに顔をスリスリとこすりつけている。今日は宮原氏も私も彼女に注目していたから事無きを得たが、存在を忘れて話し込んでいたりすると、私によじ登ってきたりして大騒ぎになるのである。

BBCfiveliveをずっとつけている。化学兵器のことを報じているが、アメリカは戦前核兵器使用も辞さないと言っていたらしいし、ジュネーブ条約だの待ち伏せがどうだのというけれど、戦争をする中で法律云々と言うのは奇妙に聞こえる。戦争自体人殺しなのだから、戦争になってしまえばなんでもありなのだ。そんなこともわからずに戦争をするほうがおかしいと、私は思う。安全な戦争なんてあるわけがないのだ。
「最小限の 犠牲者で・・・」と、我が国の外務大臣は無表情にのたまう。最小限とは一体何人なのか。10人か20人か。100人か150人かーーー。私がこれまで生きてきて、出会った人が100人いたとする。それが全部死んでしまったとしたら、どうだろうか。人が死ぬとはそういうことだ。共に過ごしてきた時間を取り上げられてしまうのだ。「最小限の・・・」などと、戦争に賛成しながらステレオタイプで答える人たちは、戦争で殺された人の数を、自分がこれまでの人生において関わってきた人数に置き換えてみればいい。大切な時間を共有した人たちの全てを失ったときのことを、想像してみればいい。
政治はいつも別の世界で動いている。

今週は暖かい日が続くらしい。週末には桜は満開だろう。昔、国分寺に住んでいたころ。実家から10キロの道のりを気に入った桜を求めて歩いたことがあった。結果として国分寺の家の前の桜が、一番きれいだったのだけれど。そんな私の行動を聞いて「金がないから歩いたのか?」と、言った人がいた。世の中色々ではある。(ちなみに、国分寺のその桜はお鷹の道の中にあった。今もあるかどうかわからないけれど、お近くの方はお寄りください。近くに湧き水もあります。)