窯猫通信覚書

絵描き・銅版画で本の挿画等描いている市川曜子の銅版画日記です。

つげと丸尾

 私は大学を出てからN工芸で模型造りのアルバイトをしていた。一緒の模型班だったのは同年代の男の人3人くらい。仕事はいつもハードで、特にコンペ用の模型を作るときには、最低週に2日は徹夜だったりすることもあった。N工芸は大きな会社だったけれど、私たちが所属していたのはその中のOスタジオ。私たちに与えられた部屋はたこ部屋と呼ばれ、事務机が3つ入ればギュウギュウの換気の悪いスペースだった。
 納品の前になるともう皆フラフラで、カッターを持ったまま机に突っ伏したり、発泡スチロールの切れ端の散らばる机の下に潜ったりして寝ていた。私は寝不足でナチュラルハイになり、ああだこうだと言いながら仕事をしていた。模型班の男達K君とT君はクスクス笑ったり、「うるさいねえ。全くこの子は。」と言いながらも時折猫の子を叱るように「シッ!」等と言うだけで、別に怒るでもなく淡々と手を動かしていた。
 ある日K君が、「ホラ、仕事はいいからこれを読んでいなさい。」と、私に数冊の漫画の本を手渡した。それは、私がこれまで読んだことのない種類の漫画だった。花輪和一丸尾末広である。唸りながら読み終えた私が「なんだい。こんな漫画。」と言うと、K君とT君は、まったくしょうがねえな。と言う顔つきでブツブツ言っていた。そうして、次の日にはつげ義春を何冊も持ってきた。つげ義春は面白くて、私が「ふうむ」と感心していると、K君達は満足そうだった。
 しかし、たいていの場合、彼らは私が困ったり、文句を言ったりするのを面白がってみていたようだ。一度などは私が最も苦手とする食べ物・・蜂の子やザザムシの缶詰めや佃煮を無理やり食べさせられそうになって、泣きべそをかいたことがある。その時は皆心底嬉しそうだった。K君とT君は共に美学校出身者で、特に赤瀬川さんの教え子で、昔の赤瀬川さんのエッセイにも何度か出てくるK君は不思議な人だった。
 思えば、当時私はまったく我が侭し放題だったように思う。よくもまあ、皆我慢してくれていたものだ。数年して、私は体を壊して3、4ヶ月の間寝たり起きたりする生活になり、そのまま何度めかの個展の準備に入って薄給過酷なOスタジオを辞めたのだけれど、K君達はその後も展覧会の度に観に来てくれていた。数年前あたりから、K君はぱったりと姿を見せなくなり、また、模型班の一人J君が身体を壊して郷里に戻ってしまって会うこともなくなった。T君はこの夏私が越すときに庭の木を切るのを手伝ってくれた。「思えば私は我が侭だった。」などと書いているけれど、今でもけっこう彼らに我が侭を言っているのだった。