窯猫通信覚書

絵描き・銅版画で本の挿画等描いている市川曜子の銅版画日記です。

絵がわかるということ

個展の間に天気に恵まれていたのは、私の日ごろの行いがよいからかと思っていたのだがそうではないようで、今週もよく晴れていた。
個展には色んな人がみえた。一人、見知らぬ老人が来て私に問いかけた。「あなたは自閉症ですか?」と。老人は自閉症児に絵を教えていて、その子たちの絵と私の絵が似ているというのだ。「自閉症でないなら、美術大学で学んでいるにも関わらずなぜこんなに絵が下手なんだ・・・・ピカソみたいだ。」と。
私の絵は、写実でもなく抽象でもないというところが、老人の理解の範囲を超えていたようで、「まったくわからない。人に理解されない絵をどうして描いているのか。」などとおっしゃる。自閉的と言われても、作家というのは基本的にそういった部分があると思っているし、「ピカソみたいだ。」というのは凄い賛辞であるが、老人の顔は不機嫌そうだったから、ここは喜んでいてはいけないシチュエーションだろう。
「私も絵を描いているのだ。」と、老人は携帯電話を取りだして、その中に入れてある自分の絵の10枚近くの画像を私に見せはじめた。画像は人物や風景。はあ、なるほど。と私が頷くと、嬉しそうにしながら、「私は、普段日動画廊などをよく見て回っているのです。あなたの絵はわかりやすいように説明した文章を絵の横に置いておくべきでしたね。」と言われる。うーん。申し訳ない。と言うしかなかった
絵がわかる。わからないとは、どういうことなのだろうか。私はとても感覚的な人間なので、絵を見るときには、わかる、わからない。と言うことよりも、好きかどうか。胸に響くかどうかということが、先に来てしまう。
 作品について言語化できなければならない。と、以前文章を書いている人から言われたことがあって、私はしばらくそれが頭に残っていた。それはある意味自分が感覚的であるということへの負い目みたいなものもあり、言語化できないから絵を描いているんじゃん。と、開き直るのはごまかしのような気もしていた。しかし個展の時に初めてお会いした編集者のNさんと後日メールでやり取りしたり、大学時代の同級生のアシカ君と話をしていて、自分の基本的な位置を確認できたりもして、それはありがたいことだった。