窯猫通信覚書

絵描き・銅版画で本の挿画等描いている市川曜子の銅版画日記です。

舟越桂展が明日までだったので現代美術館に行ってきた。これまで勿論作品はあちらこちらで見たことはあったのだけれど、多くの作品を一度に観たことはなかった。私は、木彫が好きだし、素直に静かな気持ちで観ることができるだろうと思って出かけたのだけれど。

最初は良かったのだ。入り口からしばらくは壁に沿って彫刻が並んでいた。写真で見たことのあるおなじみの代表作や、装幀に使われているものなどが壁の前に並べられていて、周りには何の柵もなく手を触れることだってできるくらいの位置に置かれており、それはとても良い展示の仕方だな。と思った。最初はーーー。
次は広い空間のあちこちに置かれていた。観客は後ろに回ったり前から見たり、とにかく自由な位置で見ることができる。
この辺りから、しだいに私はなんだか居心地が悪くなってきた。

舟越さんの作品は、ご存知のように、ある意味まるでそこに生身の人間が存在しているかのような作品である。ひとつひとつが1人1人。そういう人型を、実際の生きている人間が取り囲んで舐めるように眺めている、その光景に居心地の悪さを感じてしまったのだ。


私は初期の作品群よりも、最近のもののほうが好きである。勿論、どちらも造形的には美しい。初期のものは身体もリアルに作られていて、モデルがいることがわかる。そうして、人間の表情というのは、こんなにも多くのものを含んでいるのかということに驚かされる。彼や彼女達の性格、悲しい想い、見つめているもの、決して単純ではなかったであろう過去などなど。一体一体が物語を持っているように感じられる。
それらを、見知らぬ人間達がグルグルと取り巻いて無遠慮な視線を浴びせていることに、私は心がざわざわとした。

最近の作品ーー完全にリアルではなくて、髪の毛がおかしな具合に立っていたり、肩に風景や建物がのっていたり・・そういうのは写実という意味では少し生身の人間からは離れているように思う。
その方が私は好きだった。その方が、人間の根源的なものがシンプルに表現されているような気がしたからかもしれない。
初期の作品は、一体一体がそれぞれの人生の重さまで背負っているようだったし、性格にもスキがないようだった。彼らや彼女達は決して弱音をはかない、強い性格の持ち主のように思えた。私が話しかけても、突き放されそうな。笑顔を想像できないような存在に思えた。(それはそれで、けっこう憧れたりするのだけれど)
新しい作品群は、頼りなげにうつむいていたり、少しデフォルメされた身体や腕、勿論その表情などから、私とも共有できる物語をもっているように感じられたのだ。
とはいえ、それはああいう広い空間で、他の人に取り囲まれている作品を見ていたからなのかもしれない。もし、初期の作品も家に一体あったら、毎日違う表情に見えて、彼や彼女達の物語を私も読むことができるようになって、彼らも心を開いてくれるかもしれないなどと思う。

展示の中には、実際の作品だけでなくメモ書きのようなものまでケースに入って並べられていた。作家というものは誰もがこんなふうにポロポロと言葉を書き留めているものなんだなあ。と、私は親しみをもって読んだ。ノートの切れ端やハガキや、スケッチブックの切れ端など。そうそう、こういうふうにしているから、紙を捨てられなくなってしまうのですね。

同時開催で。ジブリの展覧会をやっていたのだけれど、私はチケットをローソンで買ってはいなかったので観られなかったが3階あたりの通路から、下の空間に置かれたジブリの次回作「ハウルの動く城」のお城の大きな模型を観ることができた。周りに集まっている子供たちは、ワイワイと触っていたので多少羨ましかった。