窯猫通信覚書

絵描き・銅版画で本の挿画等描いている市川曜子の銅版画日記です。

夕方、所沢に住むSちゃんと会った。所沢には私が居た頃にはなかった見上げると首が痛くなるような高層マンションがいくつかできている。まるでファッションビルのように階段の下に店のサインが出ているのだけれど、ライトはついていない。全体的に薄暗い。Sちゃんも臆してこれまで入ったことがないというので、2人で広い階段を上っていくと、少しずつ明るくなってきた。
階段を上りきると大きな熱帯魚屋があった。明かりはガラス張りのその店のものだった。その階の真ん中は吹き抜けになっていて、何もない大きなスペースの周りを店舗が囲んでいる造りなのだ。しかし店は殆ど入っていないし、入っていてもまだ6時過ぎだというのに閉店している所も多い。開いている店も建物の造りにあまり似付かわしくなく、筆文字のPOPがかけてあったり、提灯が下がった居酒屋などがある。おそらくこの建物はバブル期に計画されたものなのだろう。 私たち以外に人は歩いていない。まるで夏の終りの行楽地のようだった。

薄暗い回廊をひととおりのぞき込んでみてから最初の熱帯魚屋の前まで来ると、Sちゃんが「入ってもいいですか。」と訊いた。彼女は私よりひとまわり下なので、時々言葉がていねいになる。 店に入っても冷やかしの客だとわかっているからか、店主は私たちをチラリとみただけで常連客らしき人と話し込んでいた。 Sちゃんは、実は熱帯魚に凝っていたことがあると言う。「これを飼っていた。」と、彼女が指さしたのは、ミドリフグだった。鳥飼から以前もらったチョコエッグと、まさに同じ。とぼけた顔でピラピラと小さな水槽の中を泳いでいて、なかなか愛らしい。私は観賞魚にはさして興味はなかったのだけれど、ミドリフグには少し魅かれた。

水槽はかなりの数で、殆どが金魚やメダカだった。Sちゃんの説明を聞きながら一周してカウンター横の床に無造作に置かれている檻の前にきた。そこにはビーバーの様な動物が1匹入っていた。 動物は、後ろ足で立ち上がり檻の間から鼻と前脚を出している。檻の中には木箱と干からびた餌が置いてある。 爪は尖って2センチ位の長さがあり、あきらかに齧歯目なので、「指でも入れたら噛まれるかもしれないね。」と言いながら私たちは檻の前にしゃがみ込んだ。

その動物は私たちの手の動きに合わせて、檻を移動して鼻をつきだしてきた。何かをしきりにうったえているようだ。値札も名前も書いていないから売り物ではないのだろう。「君は誰なんでしょうね。」「一体何をして欲しいんだか。」と、私たちが観察していると、彼は檻の縁から離れて木箱に座りこみ横を向いてしまった。

眼は黒目がちで哀愁を帯びている。毛並みもあまりよくなく、どことなく疲れた表情で「ああ、人生なんてつまらないもんだ。」と、彼は言う。(言ってないけど)木箱の縁に前脚をかけて、「ボクはずっと耐えているんだ。これからもきっとそうなんだ。」と言いながら遠くを見つめている。
「くたびれた背広で公園でカップ酒を飲んでいるのが似合いそうだよね。『ああ。会社は嫌なことばかりだし、家に帰ってもつまらないし。やるせないぜ。』・・・。」
私はこういう動物を見ると、勝手にセリフを言うのが癖なのだ。これは、以前佐野さんに大笑いされて気がついたことなのだけど。

Sちゃんは、私が勝手に喋っていると「フフフ」と笑いながら 檻の間に指を当てた。すると彼はハッとした様子ですり寄ってきた。 鼻柱をかいてやると、うっとりとした眼差しでじっとしている。頭はドンドンと下がっていき、そのうち居眠りを始めた。「なんださみしがり屋なんだ。」と、Sちゃんが言うと、「ああ、嬉しい。気持ちが良い。」と、頭をたれる。私たちは交代でしばらく鼻柱や頭を撫でてやった。彼はうつらうつらと居眠りをして、指を止めると眼を開け、鼻柱で押してくる。ずっとこうやっていたから鼻柱が擦切れているのだ。

Sちゃんが、「また熱帯魚を見てくる。」と言って立ち上がったので、私はしばらく彼の相手をしながら、店主に動物の名を尋ねると「プレーリードッグ」と教えられた。 そのうち足が痛くなってきたので、私も立ち上がると、彼はやるせない表情でしばらく考え込んでいたが、急に檻の奥に置かれている餌を食べ始めた。私がもう一度しゃがんでみても、彼は一心不乱に餌を食べている。檻の中に指を入れてみても、もう見向きもしない。どうやら一つのことに集中するタチらしい。

私は立ち上がって、Sちゃんと一緒にまた熱帯魚を見始めた。店の奥には、温度調節がされた広めの部屋があり、壁にはびっしりと水槽が並べられ、色々な種類の熱帯魚やカメやカエルがいた。 Sちゃんが気に入ったのは、ツノガエル。黄緑色に茶色の模様のものと、黄色に赤の模様で眼が赤い2種類がいた。どちらも全く動かずに笑ったような顔のまま佇んでいる。他にも私が知らない(と言うか、殆ど私は熱帯魚を知らない)魚をSちゃんに訊きながら全ての水槽を見終えて店を出た。帰り際に檻を見ると、プレーリードッグは餌を食べ続けていた。