窯猫通信覚書

絵描き・銅版画で本の挿画等描いている市川曜子の銅版画日記です。

都知事選へ行ってから、友人のグループ展を見るために銀座にでかけた。家を出る前にアマゾンから村上版の「キャッチャー・イン・ザ・ライ」が届いたので、鞄にほおりこんで電車の行き帰りに読みふけった。いくつか、「ああ、こういうことだったのね。」と思ってしょんぼりしたけれど、まあだいたい知っているストーリーを読んだ。というような感じ。でも翻訳ってこういうの。と、改めて思い知らされた気がする。さすがに村上さん。言葉の一つ一つが丁寧に的確。・・・私の実際のホールデン少年の印象は、もっとナーバスな、もっと深刻な・・かんじ。もっともそれは村上訳でもそうなんだけど。きっと原書を読まないで、村上訳を読んでいたら、原書を読んだときと同程度の、ホールデン少年の深刻さを感じたと思うのだけれど・・・。むずかしいな。うまく言えません。いずれにしても、面白かった。(興味深かったの意)銀座の行き帰りで読みきれなかった分は、帰ってからビーチ・ボーイズを聴きながら読んだ。

●友達のグループ展。造形大同期。彼は作田富幸と言う。正真正銘銅版画家である。
 私は、自分の経歴を時として版画家なんて表記されることがあるけれど、作田氏の作品と対峙するときに、自分の肩書きはまことにおこがましいと思える。穴があったら入りたい。という気持ち。
 というわけで作田氏は勿論私のとても好きな作家であり、尊敬している作家の一人です。作品は、エロティックな部分が多々あり。でもそこに描かれている表情は少し哀しい。だけど乾いている。ジッと見ていると笑ってしまう。描かれているものは、例えば沢山のオッパイだったり、足や尻だったりする。それがからみあって、走っていたりする。いったいこの足達はドコへ向かっていくのだろうか。と、見入ってしまう。キャベツのような結球した葉っぱの頭を持つ人物の表情は、ぬるぬるしているのだけれど眼が哀しい。だけれど、じめじめしていない。私は多分、少し哀しいけれどジトッと湿っていないのが好きなんだな。と思ったりします。哀しい気持ちは底の方に流れていて、表面は結構明るかったり可愛かったりする。だけど見ているうちに哀しい気持ちが滲んでくる。音楽でも絵でも写真でも、そういうものに魅かれる。