窯猫通信覚書

絵描き・銅版画で本の挿画等描いている市川曜子の銅版画日記です。

井戸の話

以前、近所の郷土資料館に行ったことがある。特に何をやっていたというわけではないのだが、常設にはまあこの辺りは特に珍しいものもないのだろう。昔の農具など展示されていた。その中に古い井戸の部品があった。釣瓶や石や。私は祖母の家にあった井戸を思いだして母に言った。「おばあちゃんの家にも井戸があったね。」と。しかし母はそんなものはないと言った。私はずっと井戸があったと思っていたのだ。祖母の家の庭に。
目を閉じると古い石を摘んでできている井戸と、見上げたときの滑車のサビまでもがはっきりと浮かぶ。のぞき込んだときの水面や釣瓶の縄のざらざらした感じも。普段は危ないからと、井戸には古い板でフタがしてあった。でも、実際に祖母の家には井戸はなかったのだった。他の親せきの家にも井戸はなかったという。もちろん私の生家にもなかった。ではどこにあったのか。私はどこにいたのだろう。いつも座っている場所から見える庭の左手に井戸はあったのだ。そうして私は時折そこで水を汲んでいた。井戸の桶から私は木の柄杓で水を取って飲んだ。水は冷たかった。そうして・・・と、どんどん記憶の奥に入っていこうとすると、決まって頭が痛くなる。自分がどこかへ行ってしまいそうになって、怖いのでやめる。