窯猫通信覚書

絵描き・銅版画で本の挿画等描いている市川曜子の銅版画日記です。

猫町


先月半ばに中学の同窓会があった。私は欠席。
それ以前から今日まで、メールでのお知らせが幹事の人から来たり、専用の掲示板には中学時代の写真とともに同窓会出席者の写真がアップされているというのでのぞいて見たりもした。
最初は会ってもわからない人が多かった。と、メールをくれた人達もいたけれど、写真を見る限り私は殆どの人が誰だかわかった。そうして中学時代の彼らや彼女達と重ね合わせることができた。


クラスメイトが誰だかはわかるけれど、私は本当に同級生だったのだろうか。と思う。
私が思い出せないのは自分自身だった。私の中で欠落しているのは「私」の存在だった。
中学時代、あるいは高校時代、「私」はいったい何を思っていたのだろう。「私」はいったいどんな人間だったのだろうか。本当にそこにいたのだろうか。いったいどんなふうにしていたのだろうか。
まるで飲みすぎて記憶を失った人のように(!)あるいは人間として暮らすためにインプットされた人生だけを抱えている「ロズウェル」に降り立った宇宙人のように、「私」は同窓生の言葉を拾い集めてみているのだけれど、今日まであまり良い結果には至っていない。

欠落しているのは、中学2年くらいから美大の予備校に通い始める高校3年までのようだ。思い出そうとすると、頭の後ろがずるりと流されていくような感覚を20年ぶりくらいに味わう。それは多分続けてはいけないことように思うのだった。

こういう時は、喬太郎の落語でも聴きたいかんじ。