窯猫通信覚書

絵描き・銅版画で本の挿画等描いている市川曜子の銅版画日記です。

香月泰男

日曜美術館」を時々見るようになったのは、ここ数年のことだ。子供の頃には何とはなしに見ていたのだけれど、自分が絵を描くようになってからは、あまり見なかった。数年前、水彩画教室の授業の際に一人の生徒さんから「先生、先日の『日曜美術館』ご覧になりました?」と訊ねられたことがあった。私が、見ていない。と答えると、いったいなにで絵の勉強をしているのですか?と言われ、周りにいた他の生徒さんたちからも疑わしそうな眼を向けられた(様な気がした)。だいたい絵を教えるということに多少の後ろめたさを感じている私としては、ますます気弱になり、その後は「日曜美術館」を時折見るようになったのだった。
先日、香月泰男の特集の時にも見た。私は勉強不足を露呈するようだが、香月泰男の絵を殆ど知らない。勿論、名前は存じているし、新潮社刊の『春、夏、秋、冬』という小さな身の回りの動植物が描かれている画集も、行きつけの美容院で勧められて購入した。この美容師さん御夫婦は香月泰男と同郷なのだ。
そこで、私は図書館にあった「私のシベリア」(筑摩書房)という文集を読んだ。シベリアと言われて思い浮かべるのは、昔、近所のケーキ屋にあったケーキだけれど、この文集は当然香月泰男の戦争体験、シベリア抑留のことが書かれている。しかし、絵を描くものとして頷けるところが本当に多く、あとがきの野見山暁治さんの文章を読んでも香月泰男という人は魅力的な人物だったのだなあと思えた。
そうして、「日曜美術館」を見たのだ。シベリアシリーズ。確かに怖い。でも、本を読んでからだったので納得しながら見ていた。が、そこに1枚の絵が・・それは、青空に小さな星が描かれているものだったのだけれど、私がその時描きかけていた絵と、構図も色もそっくり。がーん。なんてことだ。勿論私はその絵を観たのは初めてだったし、私はシベリアを描いているわけじゃないのだけれど、ショック。もうこうなると描き続けるわけにはいかない。しくしく。こういうことが起こりうるので、私はあまり他の人の作品を見ないのだった。
以前も何かの仕事で装幀の絵を描いているとき、突然、昔見た友人の作品の構図と雰囲気がそっくりのように思われて、描き進められなくなりその友人に電話で確かめたことがあった。答えは「ぜーんぜんちがう」というものだった。後から見ると、確かにまったく違っていたのだけれど、絵を描いているとこういった強迫観念にかられる時がままある。たいていはこちら側の思い込みで、その時は「絵描きの宿命」と、鳥飼に言われて安心したのだった。