窯猫通信覚書

絵描き・銅版画で本の挿画等描いている市川曜子の銅版画日記です。

黒い雨

金曜日。ニュースでは、もう殆どイラク情勢に時間を割かなくなった。日本人が人質にされた当初の報道はすごかった。
まだ人質の無事が確認されてもいないころから、家族には犯罪まがいの嫌がらせがあったというし、今でも彼等の家に中傷の手紙が届いているらしい。いったい、日本とはなんという国だろう。感情を露にした家族の言動のせいだという人もいる。でも、もしも自分の家族や友人が、同じ眼にあったときに、3日後には生きたまま焼かれてしまうかもしれない。というときに、冷静に、生きるも死ぬも運命だなどと言っていられるのだろうか。生あるものは必ず死ぬけれど、それは他人に言われるようなことでも決められることでもないのだ。当然のことだけれど。戦争では多くの人の命が他人や国家によって決定されていく。国とはなんだろうと、再び考えさせられた。
救助には税金が使われたのだから迷惑だ。と鼻息を荒くする人がいる。そういう人は、これまで政治家の脱税問題や、今問題になっている税金で建てられた豪華な公務員住宅にも、たいそうな関心を持っていたに違いない。そうして、そういう世論がバックにあると知ってからか、政治家もしたり顔で自己責任論を振りかざすようになった。
今年の流行語大賞になるのではないかと思うほど、「自己責任」などという言葉が飛び交っている。(とりあえず)日本国内は戦時中でもないのに、言論統制がひかれたかのようだ。何故皆揃ってヒステリックに「自己責任」なんて言うんだろう。誰かに責任を押し付けることによって、何かから逃れようとするかのように。「自己責任」があるなんて、大人だったら当然のことだ。彼等は判断ミスがあったのかもしれないけれど、それを叱るのは、親兄弟や彼等と直接関わった人だけなのじゃないのだろうかと私は思う。
日本人の人質が解放されても、報道が減っても、まだイラクは変わらずに戦争状態にあるし、皆忘れちゃったかもしれないけれど、アフガニスタンだって未だに大変な状況にある。爆弾が落とされた場所には、例えば下記の『九十九里浜』に写されている、普通の人たちの生活があるということを想像するのは容易なことだと私は思うのだけれど。
チャンネルを変えればナイター中継をやっている。チャンネルを替えずにイラクへ行き、自分たちのできることをやろうとした若い人に対して、いったい皆何を腹を立てているのだろう。ネットの掲示板やブログを読んだりすると、なんだか悲しい気分になる。
先日『黒い雨』を読んだ。その中に、「わしらは国家のない国に生まれたかったのう。」という言葉があった。そんなふうに言わなくてはならない時が、またくるのではないか。と、時々思う。

黒い雨 (新潮文庫)