窯猫通信覚書

絵描き・銅版画で本の挿画等描いている市川曜子の銅版画日記です。

先日書いたように、私はこのところ同じ新聞を購読している。他の新聞も読んでみようと思うこともあるし、強引なセールスマンに負けて1ヶ月だけY新聞を購読したこともあった。それはジャイアンツ嫌いの私には苦痛の1ヶ月だったけれど。
いずれにしても新聞の報道は誠に頼りないもののように思える。読みながらも本当かなあ。と思っている自分がいる。記事を読んでも見出し以上のことが伺われないように思うことも多い。これだけ毎日色々なことが多かったら仕方がないのだろうか。殆どのことはネットで読めるのだ。もっと詳しい情報も勿論のこと。それでも新聞を購読しているのは、これは変だろう。と思うきっかけになるからにすぎないような気がするこの頃。

テレビの映像というのは、イラクの戦争でもわかるように加工し放題である。フセイン銅像を倒したのはイラク市民ではないのにアメリカが加工した映像が全世界に流れた。あれはかなりのインパクトがあっただろうと思う。嘘の映像でも、流したモン勝ちみたいな。
テレビのニュースはスピードが勝負なわけで、終わったことはドンドン消えていくけれど、世界は続いているのだから新聞はそうではないところを書いていかないと、生き残れないのではないかと思う。私も、ののちゃんを読むためだけに新聞を購読しているわけではないし。

イラクの特別番組をこれから教育テレビでやる。

で、見たのだけど、ネットの有効性を説くような番組構成だった。Where is Raedなど、番組で紹介されたサイトを知らなかった人にはよかったのかもしれない。
インターネットが次の戦争を防ぐためのツールに・・・と、司会者は言っていたけれど、本当にそうなるのだろうか。そんなふうに言ってしまうことはテレビの報道の力の無さを自ら認めているような気がする。まあ現実ではあるけれど。パソコンを持っていない人達だって沢山いるし持っていてもネットに繋いでいない人たちも沢山いるのだ。 パソコン環境などと全く関わり無く平和に暮らしている人たちに、コンピューターにどっぷりと浸かっている人たちが攻撃をしかけているのに。
要は想像力の問題のように思う。爆弾が落ちた下にも人々が普通に暮らしているという当たり前のことを、コンピューターにどっぷりと浸かっている世界の人たちは、ネットで悲惨な写真を見たり、叫びを聴かなければ気がつかないということが問題だと思う。次の戦争を防ぐこととは反対のベクトルの力は、大きいと思うのは悲観的すぎるだろうか。